SIM City 2019

この記事は SORACOM Advent Calendar 2019 12/23 分のエントリーです。

 

藍色の記憶

DNAへの情報保存、太古の昔から、様々な生命の設計情報保存のために利用されてきたこの情報保存のための仕組みは、単位面積当たりの情報保存量と耐久性において、過去の情報保存技術 -たとえば磁気や電荷を使ったもの- を遥かに凌駕している。

 

特徴的な螺旋構造を持つDNA構造を使い、様々な情報を保存するための技術は、情報保存の要求が増え続けるなかで発展していき、DNA構造への情報の読み書きの安定性・速度の向上により、今現在、"Harvest" と呼ばるDNAストレージがあらゆる情報の格納先として使われるようになった。

 

またこの世界のあらゆるモノは、nSIM ( ユニークなIDを持つ、カーボンナノチューブで作られた極小の通信モジュール ) が一般化したことで、物理空間から得られた情報を、通信を介して仮想空間へと容易にデータマッピングできるようになっている。nSIMを介してHarvestへ瞬時に反映された情報は、物理世界をデジタルに鏡写しした"デジタルツイン"と呼ばれている。

 

Harvestを構成するDNAは材料も容易に入手可能で、かつデータ容量あたりの容積も小さいため、すべての人々はこのnSIMを媒体にして、生まれてから死ぬまでのさまざまな情報をデジタルデータとしてHarvestに保存するようになった。

 

すべてのnSIMには固有のIDが割り振られており、そのIDを識別子として通信が行われる。IDで識別された情報は、その物体を持つ所有者ごとに定義された通信エンドポイント(ユニファイドエンドポイントと呼ばれる)を通じて送受信が行われ、ユニファイドエンポイントを経由した所有者にまつわるさまざまな情報、例えば生体情報や位置情報、所有物の情報などは、"ライフストリーム"と呼ばれる情報の大きな流れとして、時系列で格納されている。

 

ライフストリームは、所有者が目的に応じて複数定義することができる。例えば健康に関する情報だけを入れるライフストリームや、所有物に関する情報だけを入れたライフストリームを作ることなどができる。そしてそれぞれにライフストリームに対しては、任意のアプリケーションを適用しておくことができる。例えば所有する自動車のライフストリームに対して点検アプリケーションを適用しておくことで、故障を未然に防いだりできる。

 

また、ユニファイドエンドポイントを経由する全ての情報、すなわち個人の持つ全ての情報を含んだライフストリームは「プライマリーライフストリーム (通称 PLS)」と呼ばれている。PLSはその所有者の人生そのものを記録しているストリームとなるため、所有者にとっては最も有益なデータソースとなる反面、他者に漏洩した時の問題が大きいため、管理は非常に厳密に行われている。

 

現在、あらゆるライフストリームは、自分の意思を持って、自分のためだけに使うことが義務付けられている。以前は本人の許諾を何らかの形で得れば、他人でも安易にライフストリームにアクセスすることが可能であったが、ライフストリームの情報を不当にコピーしたり、不利益を被るようなビジネスや犯罪が横行するようになったため、ライフストリームへのアクセスは、現在では厳しく制限されている。

 

個人が特定でき、かつ一定量以上のデータを持つライフストリームは、原則として他者への公開が禁止されている。もし公開を行う場合は、しかるべき手続きと認可を得る必要がある。特にPLSは最も厳重に管理される対象となっており、あらゆる国家権力・権限、たとえ法的な執行権限を持ってしても、アクセスが行えないように定められている。またPLSは、仮に遺族が臨んだとしても、死後全てが削除されるようになっている。すなわち、PLSはその所有者と同等(それ以上)の存在として定義されている。

 

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「症状は少しづつですが、進んできていますね。今回使った目薬も、残念ながら大きな治療効果は見られませんでした。」

 

スクリーンに映された診断書を見ながら、眼科医のカール・アードラーは診察の結果を患者に伝えた。

 

「まだ視力に対する影響は出ていないですが、進行が進むと、網膜への影響も発生する可能性も考えられます。正直なところ、状況はあまり良くありません。」

 

エレナ・キンジョウは、"突発性青膜炎"と名付けられた眼の病気を、2年前に左目に発病した。この病気は、眼球全体が青くなっていく病気で、初めは白目の部分の色が変わっていき、次第に網膜に影響が出始め、最終的に視力を失う。世界でも発症例が少なく、サンプル数の少なさから治癒方法の研究は進まず、発症のメカニズムはいまだに解決されていない。

 

「以前からお伝えしている通りですが、紫外線などで目に刺激を与えないよう、サングラスなどで出来るだけ目を保護するようお願いします。」

 

エレナは、一向に進まない治療結果に、苛立ちよりも落胆を感じている。

 

「もう、元には戻らないのかな・・・」

 

この病気を患ってから、エレナの生活は一変していた。

 

エレナは沖縄で生まれ、沖縄で育った。幼い頃から海を愛し、両親と共に沖縄の海底都市に暮らし、スキューバダイビングのインストラクターとして活躍していた。

 

しかしながらある時、この病気が発症した。眼に青い斑点のようなものが出始め、日を追うごとにその症状は広がって行った。今では左目のほとんどの部分が青色に変わっていた。

 

インストラクターという仕事上、多くの人と関わる必要があるが、この病気を発症して以降、次第に周囲から奇異の目で見られているのを感じ始め、精神的に追い詰められて行った。また沖縄の強い日差しは、病気の進行に影響がある可能性があると医師に指摘されたこともあり、今はインストラクターを辞めて、故郷から離れた紫外線量の少ない場所に移り住んでいる。

 

髪を伸ばし、人目を避けるようにして暮らしてきたエレナだが、そんな彼女の唯一の心の支えになっているのが、ケンイチ・スズムラ、彼女の恋人である。

 

「ケンイチ、今日も診察をしてもらったけど、何も改善はなかったわ。残念ながら症状は進んできているみたい。」

 

スクリーンに映ったケンイチに話しかける。ケンイチはドバイで、スペースシャトルの空港建築の仕事を行っている。

 

「そうか、残念だな・・・でもまだ視力には影響がないみたいだし、大丈夫だよ!お土産買って帰るから、楽しみにしてて。」

 

そうね、大丈夫よね、と楽観主義のケンイチに、エレナはいつも助けられている。


エレナとケンイチとは、彼女がスキューバーダイビングのインストラクターを辞める直前に出会った。ケンイチは海底都市の増築作業のために沖縄を訪れており、休暇でスキューバダイビングを体験しに来た折に、エレナの働いていたダイビングスクールに資格を取りに来たのだった。

 

初めてケンイチとエレナが出会った時、お互いに驚きを隠せなかった。

 

なぜなら、エレナの眼と同様に、ケンイチの右眼も青色だったからだ。

 

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同じ症状を持つ二人は、出会ってから症状についての情報交換をするようになり、仕事や私生活など様々なことを共有する仲となるのには時間はかからなかった。

 

ケンイチは仕事柄、職場を点々としており、世界中、時には月面の建設現場にも足を運んでいた。物理的にエレナと一緒に過ごせる時間は多くなかったが、豊富な通信手段は、その壁を取り払うには十分であった。

 

お互いにとって、自分の病気のことを自ら理解している相手は貴重で、安心して話ができることは何者にも変えがたいことだった。エレナにとっては、楽観的な彼の性格に勇気づけられることが多く、そんなケンイチに強く惹かれていった。ケンイチにとっても、エレナは心安らぐ相手であった。

 

「彼女が笑顔を取り戻すために、なんとか治療方法を突き止めたいが・・・」

 

彼は、エレナの眼をどうにか治してあげたいという気持ちでいっぱいだった。彼女の症状が重くなるにつれ、目に見えて彼女の心労が重くなり、ケンイチが初めてあったときにスキューバダイビングで見せた彼女の笑顔が、どんどん過去のものになって行ったからだ。どうにかあの時を取り戻してあげたい、そんな彼女と一緒になりたい、ケンイチは日増しにその思いを強くするのだった。

 

また彼女だけでなく、ケンイチは自分自身の症状にも危機感を感じていた。眼の症状は、ケンイチの方が先行しており、白目の部分は完全に青みがかり、視力の低下が出始めていたのだった。

 

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ケンイチは病院に通いながら、医師の手を借りて、さまざまな医療アプリケーションを試し、原因となりそうなものを自分のPLSから探そうとしていた。

 

医療アプリケーションとは、過去のサンプリングデータや機械学習モデルを元に、専用の検索言語(Life Stream Query Language : LSQL)を使ってライフストリームを検索し、病気の原因や改善方法を見つけるアプリケーションである。

 

目にまつわる病気を検知するようなアプリケーションを中心に、治療方法を探すような医療アプリケーションを試したが、残念ながらそこから導き出される結論は、的外れな推測や、効果のない治療方法ばかりであった。

 

なぜならこの病気に関しては過去のサンプルがほとんどなく、症状のパターン自体が確立されていないため、原因となりうるものを特定するのが非常に困難な状態であったためだ。

 

「エレナ、これまで僕は数年間、様々な治療や医療アプリケーションを試したけど、有効な治療法を見つけられていない。」

 

「そうね、私たちと同じ病気の人はほとんどいない、回復したという症例もない。それにいま多くのお医者さんは、火星にまつわる病気治療に集中しているし、難しい状況ね。」

 

「僕は、君の病気を早く治したいと思っている。もちろん自分自身の病気もだ。このままでは、君の笑顔を失ってしまうかもしれない。」

 

ケンイチは一呼吸置いて、エレナに伝えた。

 

「そこで、これは大きな決断だったけど、僕のPLSを、君に渡そうと思う。」

 

ケンイチは真剣な眼差しでエレナに伝えた。彼女はとても驚いた表情をしている。

 

PLSを渡すとは、別の人に対してPLSの参照ができる権限を渡す、という意味だ。

 

ライフストリームの参照権限を渡すという行為は、それなりに一般的に行われている。例えば運動器具からくるライフストリームを、トレーナーに公開するようなケースだ。

 

ただしそれは外部公開用に情報をマスキングし、用途や参照可能時間を必要な分だけに情報を絞って渡すのが一般的であり、個人情報の塊であるPLSを他人に渡すことは、ほとんど行われていない。

 

PLSが見えるということは、その個人に関して過去も含めたあらやる情報を見ることができるという意味であり、場合によっては信頼関係に取り返しのつかないダメージとなる場合もある。

 

ただ、もしケンイチがエレナにPLSを渡した場合は、彼女は自分のPLSの情報と合わせて、より幅広い解析が可能となる。同じ症状を持つ二人の共通点を医療アプリケーションで見つけることが出来れば、治療方法の糸口が掴める可能性が高まる。

 

「ケンイチ、ありがとう。確かにあなたと私のPLSを合わせてれば、なんらかの結果は得られるはずね。」

 

「PLSには、僕の過去の行動が全て記録されている。もしかしたら、僕のPLSを見ることで、君は僕のことを嫌いになるかもしれない。でもそれでも僕は、君が助かる可能性が少しでもあるなら、この方法を選びたいと思っている。」

 

他人へのPLSの公開は、PLS運用機関による認可が必要となる。今回のケースでは、ケンイチがエレナにPLSを渡す理由が明確で、悪用の危険性もないと判断され、認可申請はほどなく受理された。

 

なお、PLSへのアクセスは、他者のプライバシーの侵害となるような情報が外部に漏れる可能性がある。例えばケンイチのPLSに入っている情報によって、本来エレナに知られてはいけない情報が漏れる可能性がある。このため、PLS所有者以外の外部からのPLSアクセスに対しては、こういった情報をマスクするためのフィルター処理が設定された専用の検索言語(Primary Life Stream Query Language : PLSQL)が用意されている。

 

「よし、じゃあ早速はじめよう。」

 

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医師の指導のもと、エレナがいくつかの医療アプリケーションを走らせた。

 

エレナには30年分の、ケンイチには27年分のデータがPLSに格納されており、2つのPLSを使った分析には、およそ2週間ほどかかった。


アプリケーションが見つけた二人の相違点は定期的にエレナにレポートされ、彼女はそれを逐一確認していった。内容によっては、エレナはケンイチのセンシティブな情報を目にすることになったが、ケンイチの想いを無駄にしないよう、冷静になるように努めた。目的はあくまでも治療の糸口となる情報を探すこと、そう言い聞かせて作業を行なった。

 

そして、作業を終えて得られて結果は、"病気の原因となりそうな二人の相違点はほとんど見つからなかった"という結果だった・・・

 

「ごめんなさい、せっかくあなたが意を決してくれたのに、結果を得ることができなかった。」

 

「謝らないで。君が悪いわけじゃない。それにいくつか君と僕のライフストリームの相違点は見つかったし、これはきっと役に立つ。」

 

彼女を励ますように、ケンイチは声を掛ける。

 

「おそらくもっと別の方法での分析が必要なんだ。」

 

分析に利用した医療アプリケーションは医療に特化しており、幅広い情報から相関を見出すようには最適化されていない。このため、PLSの情報を十分に分析できていない可能性があった。複数のライフストリームの特徴を捉え、相関を見出すにはより高度なアプリケーションの利用が必要なのだろう。ケンイチはそう考えたが、具体的にどのような技術が必要なのかは、彼の知識では分からなかった。

 

「僕に考えがある。エレナ、話を聞いてくれないか。」

 

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"難病の男性、助けを求める。PLSを公開へ"

ケンイチが取った行動は、生まれてから発症に至るまでの自分のPLSを、パブリックに公開するというものだった。一定の分析技術を持つ人に対して、彼のPLSへのアクセスが出来るようにした。PLSをパブリックにするということはほとんど行われておらず、またその目的が特殊な病気を治すためということもあり、この情報は世界中に瞬く間に拡散した。

 

世界各地から、彼の行った行動に対する多くの称賛の声と、そしてそれ以上の非難の声が届き、ケンイチはパニック状態になった。しかしケンイチは彼女を助けることを心の支えにして、メッセージを一つづつ読み、ライフストリームへのアクセス申請に1つ1つ対応していった。

 

1週間が経ち、ようやく騒ぎが落ち着いた頃、1件のメッセージがケンイチに届いた。

 

「私も、あなたと同じ病気を持っています。少しお話しできませんか?」

 

すぐさまOKの返事をすると、ビデオカンファレンスのウィンドウが開いた。

 

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「M. Kenichi, Ravi de vous rencontrer.」

 

髭を蓄えた精悍な男性と、長髪で褐色の女性がスクリーンに映し出される。フランス語のようだ。翻訳機能をONにして、翻訳しやすい日本語で話を始める。

 

「こんにちは。メッセージをくれてありがとうございます。私はケンイチです。」

 

「ケンイチさんこんにちは。私はエマ・アルカスといいます。こちらは夫のマテオです。私たちは今、タヒチに住んでいます。」

 

そう言いながら、彼女は顔にかかった髪をかきあげる。突発性青膜炎。ケンイチ、エレナと同じ症状が彼女の右目に発症していた。

 

「この病気が発症したのは、およそ半年前です。私と同じ症状を持つあなたがPLSをパブリックにすると聞いて、連絡しました。マテオは、ソフトウェアのエンジニアをしています。いままで彼は、私に医療アプリケーションを使う手伝いをしてくれたり、自作のアプリケーションを私に提供してくれて、病気の原因を探すのを手伝ってくれていました。しかしながら、今は良い結果を得られてはいません。しかし今回、同じ症状を持つケンイチさんのPLSと私のPLSを比較すれば、なにか新しい発見があるのではないかと期待しています。」

 

同じ疾患を持つ人からの、願ってもない申し出だった。

 

「実は私たち夫婦は、今子供を作ろうとしている。しかし彼女も、そして私も、病気のことが気になって前に進むことができなかった。今回、あなたの勇気ある行動を見て、私たちも行動しないといけないと気づかされた。そして、彼女は自分のPLSを私に渡すことを決意してくれたんだ。これは大きな決断だった。」

 

マテオがエマをいたわるようにして、話しを続ける。

 

「私の仕事の仲間には、ライフストリームを解析するいろいろなアプリケーションを作っている開発者もいて、きっと役に立つことができる。今までも彼女の一部のライフストリームを使って、原因を探すことを手伝ってくれていたのだが、今回、妻のPLSとあなたのPLSを比較することができるなら、病気の原因により一歩近づけるのではないかと思っている。」

 

「大変ありがたい申し出に感謝します。医療以外の角度からの分析ができるのであれば、願ってもないことです。作業については、マテオさんだけが行いますか?それとも仲間の開発者の方にもPLSを共有しますか?

 

「妻のプライバシーがあるため、PLSのアクセスは私だけがするつもりだ。仲間にはアプリケーションの開発を手伝ってもらうが、アプリケーションの実行や結果の確認は私だけが行う。」

 

「なるほど、そういうことでしたら、もう1つお願いがあります。」

 

ケンイチが自分のPLSを公開する際、最も期待していたのは、同様の病状を持つ他人のPLSを、ケンイチのPLSと合わせて分析対象にすることだった。

 

ケンイチ一人のPLSを公開して分析するだけでは、おそらく期待する結果を得ることはできないだろうと考えていた。ただ、もしケンイチとエレナ二人のPLSをパブリックにするとなると、エレナの存在が広く公になってしまい、興味本位でアクセス申請してくるのがほとんどを占めてしまうだろうことは容易に予想がついた。このため、ケンイチは自分のPLSだけを公開するとして、エマさんのような人が申し出るのを待っていたのだった。

 

「実は、私のパートナーであるエレナも、同じ病気にかかっているのです。そして、もし誰か同じ症状を持つ人のPLSと比較ができるような状況が来たら、彼女のPLSを、分析のために渡そうと考えていました。私は以前、自分とエレナのPLSを使って、病気の原因を分析しました。しかしその時は残念ながら有効な結果を得ることができませんでした。ただこれだけ珍しい病気を持つ3人のPLSがあれば、高い確率で共通した原因を特定できるのではないかと考えています。」

 

エマもマテオも、驚きを隠せなかった。しかしこれは彼らにとっても良い話であった。

 

「なるほど、確かに3人分のPLSがあれば、良い結果が得られるだろう。分析については、同僚に協力を仰いで、全力であたらせてもらうよ。」

 

マテオはそういい、程なく作業が開始された。

 

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2ヶ月後、疲れた表情のマテオから、作業が一旦終了したとの報告が来た。

 

「いくつかの医療アプリケーションと、同僚に協力して作ってもらったアプリケーションを使って分析を進めたのだが、病気の発症前のPLSを入念に比較した結果、三人に共通した特徴のある行動をいくつか見つけられた。住んでいた場所の気圧や、使っていた食器の材質、幼い頃の住環境、装飾品など、該当したものについてはリストを作成することができた。しかしここから先は、医師の知識が必要となるだろう。残念ながら、私や同僚には、ここから先の調査を行うことができない。君はこのリストを主治医に渡して欲しい。私はエマの主治医と相談してみることにするよ。」

 

ひとまず結果が出たことに、私とエレナは安心した。まだ問題は解決していない。しかし、何歩かは前進している実感を得ることができた。

 

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二人の男女が手を握りあい、マレーシアの青い海を見つめている。

 

「もう2年前経つのね。ケンジ。」

 

「そうだね。いろいろあったね。でもこうやって二人で暮らすことができるようになって、本当によかったよ、エリザベス。」

 

2年前、二人はお互いのことをケンイチ、エレナと呼び合っていた。

 

マテオの解析結果が功を奏し、突発性青膜炎の治療方法は確立された。イオン化した錫と月面の塵に含まれる成分が特定の条件で引き起こすアレルギー反応、と説明を受けたが、詳しいことはわからない。ただ何種類かの目薬と服用薬、週に一度の通院で、半年もすると症状はなくなっていた。

 

この難病の治療方法が確立されたことで、ケンイチをはじめ、マテオやその同僚、主治医たちは一躍時の人となった。しかしながら、マテオは手柄を全て自分のものにしようと焦り、分析の詳細内容を公開する中で、エレナやエマの事も世間に公開してしまい、その結果二人も世間の目に晒されることとなってしまったのだった。一度流出してしまった情報は、その全てを取り戻すことは事実上不可能で、数多くの他人の心ない言葉により、彼らの生活は以前よりも荒んだものになってしまった。

 

ケンイチとエレナが望んだのは、安らかな生活だった。二人はケンイチ/エレナとして生きることを捨てるため、国に対して、デジタルリバース法の適用を申請した。

 

デジタルリバース法は、デジタル社会において、所有するデジタルデータのために不利な扱いを受けたり、デジタルデータと個人の紐付けがあるために実生活に大きな支障をきたすような場合に、個人の名称や居住地を変更するだけでなく、デジタルデータを破棄して、新しいデジタルデータを持って生まれ変わる(rebirth)ことを保証するための法律となっている。

 

元々は、AIによって個々人に信用スコアがつけられていた時代、いったん低いスコアとなった者がスコアを上げることができなくなるという悪循環から脱出するための、いわば破産申請のようなことを手助けする法律から来ているが、ケンイチとエレナは、これにより自身のPLSを全て破棄し、新たにケンジ・エリサベスとして、マレーシアで新しい人生をスタートしたのだった。

 

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無数のSIMによりヒトとモノがつながり、そして共鳴する街、SIM City

 

テクノロジーがヒトとモノをつなぎ、ヒトとヒトをつないだとしても、生み出される結果の全てが、ヒトの幸せにつながるとは限らない。テクノロジーは日進月歩で進化しつづけているが、ヒトはいまだに、進化できないままでいる。

 

 

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